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タイトル 司書の私書箱

No.20「封印と関節の手紙」

挿絵
※挿絵はクリックで拡大します。

 こんにちは!
 先日、数十年ぶりに日光に行ってきました。滝や湖など、自然の景観もよかったのですが、やはり東照宮含む建築群のおもしろさは圧倒的でした。「日光を見ずして結構と言うな」とはよく言ったものです。そして、いただいた手紙の「半年ROMってろ」はこちらの現代版と言えるのではないか、と思ったのでした。
 どちらも表面上は「発言の禁止」というか「発言の封印要請」を表していて、そこはやはりひっかかる。「言論の自由」なんて言葉すら思い浮かんでしまいます。
 しかしもちろんこれは、単純な禁止でなく、先行事例を参照せよ、文脈を読め、ということですよね。むしろそれをしないで発言すると、議論を停滞させたり、自分が恥をかいたりする、という戒めになっているんです。先行するものを知らないと、新しいものは生み出せない。

 しかししかし、それを言い始めると、いつまでも発言できない。なので「半年」とか「日光」とか、具体的な指標を示してくれるのはありがたい、という面もある、と。ただ、「情報収集は本当に半年でいいのか?」「日光をどれくらい見れば「見た」ことになるのか?」とも考えてしまいます。
 私自身も中学生のころに一度日光を「見て」いるので、「結構」と言う資格はあったはずなんですけど、今回再訪して、まったく見方や捉え方が変わっていることに気づきました。またイザベラ・バードは「日光に滞在して九日にもなるから、もう「結構!」という言葉を使ってもよいだろう」と言っていて(『完訳 日本奥地紀行1』平凡社 2012)、バードにして9日間は「結構」を封印していた(?)のだから、これは自分が「結構」と言えるのはまだまだ先だぞ、と思ったりもします。
 しかししかししかし、いつまでもROMっていては手紙を届けることもできないので、どこかで「えいやっ」と封印を破って発言を始めることにするわけです。相変わらず前置きが長い…。

 さて「関節」です。ハムレットの「この世の関節が外れてしまった!」という台詞を思い出してしまいました。原文では「The time is out of joint」の部分ですね。  翻訳はいろいろとできるんでしょうけど、ハムレットが急死した父本人(の幽霊)から死の真相を聞き、その非道を嘆く場面ですから「関節の不在」について言っていることは間違いなさそうです。「今や、関節なんてあったものではない!」みたいなことなのかな。「道義」とか「筋道」とかいう意味を想像しますが、単純に「つながり」と考えてもいいのかもしれません。「ぜんぜんつながってないじゃん!」とか?

 図書館に「良い関節、あるよ」と言うとき、この「つながり」のことを指すのだと考えると「図書館の3要素」を連想し、ちょうど収まりがよいように思えて、納得感がありました。
 人と情報をつなぐ関節となる「資料」「施設」「人」。図書館には「関節」がたくさんある(べき)ですが、図書館自体が「関節」である(べき)、と。

 そして、年齢とともに「関節が消耗品であること」に気づいてきたりもします。これは自分の身体についての実感なのですが、図書館が「成長する有機体」であるとすると、案外、この関節も消耗品なのかもしれないな、と思ったりします。
 その消耗の進行を遅めたり、弱った機能を補ったりするのが「筋肉」ということになるのでしょうけれど、図書館と言う関節に対する筋肉とはいったい何なんだろう、と考えたりもします。

 ランガナタンやら図書館の3要素、イザベラ・バードにシェークスピアと、スタンダードというかクラシカルというか、そんな手紙になってしまいました。とりあえず文箱に入れておいてください。(大)

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