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タイトル 司書の私書箱

No.17「隠れ家と出会い方の手紙」

挿絵
※挿絵はクリックで拡大します。

 こんにちは。
 いただいたお手紙にあった、絵本『木はいいなあ』(ユードリー:さく、シーモント:え、さいおんじさちこ:やく 偕成社 1976年)は、私も好きな絵本です。この絵本に煽られて、5年前に庭に木を植えました。樹種は榎(エノキ)で、赤い実をつける大きな(大きくなる予定の)木です。暴風にも冬の寒さにも負けず、すくすく育っています。

 さて、「隠れ家」話は心躍りますね。
 ちょっと脱線しますが、考えてみると小さいころからモノを隠す行為は苦手だった気がします。学習机の一番下の引き出しにあんな本を隠しては母親に見つかり、仏壇の裏にこんな本を隠しては母親に見つかり、カーペットの下にそんな本を隠しては母親に見つかっていました。
 一方で、誰かの隠しモノはよく見つけていたような気がします。何気なく手に取った書類の下に、そこにあるはずのないモノを見つけた時。ん?とハテナが浮かんだあと、「あ、もしかしてこれは誰かの隠しモノか!」と思考が追いつくあの瞬間(では誰が…とか、良くないと思いつつ推理スイッチが入っちゃうんですよね)は、何とも言えない高まりがある気がします。そうはいっても、「おい、どこに隠したんだよー」と、何としても探したいというわけではなく。何気なく「見つけてしまう、気づいてしまう」偶然の出会いが楽しいんですよね。…『図書館で本との素晴らしい出会いを!』おお、すごくこじつけっぽい。まあ、出会う側の視点だと、「面白そうな本と出会う」という出会いも当然楽しみですけど、「棚を作った/本を棚に出した図書館員の工夫(こだわり?)」に気づいて、それがなんとも良い感じのくすぐり方をしてくる、自分の感性に合う、「これ作ったの誰だろう」と気になってしまうような、そんな出会いも格別なんですよね。

 出会うこと、気づくことを考えてみると、出会い方、偶然とのぶつかり方なんていうのもキー要素かなあと思いました。「待て、今じゃない」みたいな。ロマンとセンスのある偶然に飛び込んでいける環境をつくる努力は、平常時から積極的にしていきたい。煽られたときに面白いと思ったら、フワッときれいに火の粉をふりまけるような自分でいたいなあと、前回のお手紙に煽られた次第です。
 そういう意味で言えば「騙される」というのも「煽られる」と漢字と感じがちょっと似ているなあと。いしいしんじ『プラネタリウムのふたご』(講談社 2003年)に「だまされる才覚」なんていうのが出てきます。

 『タットルは微笑した。だまされることは、だいたいにおいて間抜けだ。ただしかし、だまされる才覚がひとにないと、この世はかさっかさの、笑いもなにもない、どんづまりの世界になってしまう。(中略)「ひょっとしたら、より多くだまされるほど、ひとってしあわせなんじゃないんだろうか」とタットルはおもった。』

 閑話休題。
 「隠れ家を置くなら」私ならどこだろう?と考えてみました。
 雑居ビルの一室…人里離れた森の中…博物館の地下…チョ●ボの空中庭園。新宿ゴールデン街や九龍城砦、円都(イェン・タウン)。隠れ家の中の安全が担保されているなら、できるだけ雑然とした場所に置きたいかもしれません。
 そう考えれば「人間社会の中の図書館」というのも、確かに!人間社会は雑然としがちですからね。では、「隠れ家としての図書館」が成立するために担保されるべき安全とはどんなものか。人としての権利(公共の福祉の考えを踏まえて、やりたいことをやっていい)、自由に使える時間、身体的・精神的に攻撃されないこと…。限定された枠内での自由性なんてものを考えると、「公共の福祉」という大きなルール(日本国憲法!)が既にある以上、図書館内での「他の利用者への迷惑になる可能性があるから●●禁止」という、利用者の行動を先回りして館内ルールで制限するのは、アジールっぽくないですね。せっかくの隠れ家なら、っぽくやっていきたいですよね、っぽく。
 隠れ家が必要な(無いといけない)社会というのもちょっと歪んでいるような気がしなくもないので、「隠れ家があればもっと豊かになるよね、豊かさを求めるのって良いよね」くらいで行きたいです。いや、ほんと木はいいなあ。(高)

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