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タイトル 司書の私書箱

No.14「迷子と桜の手紙」

挿絵
※挿絵はクリックで拡大します。

 迷子ね、いいですね。今まさに迷子かもしれません、私は。
40年ほど前に一度だけ訪れた県に住み、仕事をすることになりました。見る景色が日々新しいです。当然(?)迷子にもなります。

 思えばクルマにナビゲーションを導入するまでに、けっこう粘りました。もともと方向音痴(なんて言葉でしょうね)なので、道にはよく迷ったものでした。路肩にクルマを停めて道路地図を見て、なんてことを繰り返していたのですが、それも嫌いではなかった。
 カーナビなんてものが一般化する様を横目で見ながら(金銭的な事情もあり)「ナビはいれない。道に迷うのも楽しいから」などと嘯いていたんですね。それは強がりでもあったし、本音でもあった。道に迷うのは(一定の条件下では)楽しいんです。
 しかし時間とともに事情も変わる。いつも「一定の条件下」にいられるわけではなくなる。効率を優先させなければならないことも出てくる。
 いったん導入すれば、やはり便利なものは便利。ナビのついたクルマを買うようになって、買ったクルマにナビをつけるようになって、もう5台目になってしまいました。
 迷子になるのも贅沢な行為なんでしょう。

 さて、迷子になって益子町に来ることになりました。地図を見ながら、ナビに頼って人生を歩んできたわけではないけれど、この迷子さ加減は我ながら笑ってしまいます。

 益子で気になる人物といえばやはり濱田庄司です。益子町で作陶した陶芸家ですね。民藝運動の創始者のひとりでもあります。その著書を読んでいたところ、こんな言葉に出会いました。
 「私の仕事が、作ったものというより、少しでも多く生まれたものと呼べるようになるものになってほしいと思う」(『無盡蔵』講談社文芸文庫 2000年)
 
 これは何か響くところがあったんです。私は「図書館をつくる」仕事のためにここにやってきた、と思っていた。しかし「図書館が生まれる」ところに立ち会うために来た、とも考えられるのではないか。
 ただ漫然と仕事をしていても「図書館が生まれる」ところに立ち会えるわけではない。やれることをすべて、誠心誠意全力でやってこそ、そんな奇跡のような瞬間に立ち会えるのではないか、と考えるようになりました。
 濱田庄司も「結局六十年間、体で鍛えた業に無意識の影がさしている」と書いています。
 
 桜は誰かが植えてくれたもの、という感じが強い。並木なんて特にそうですね。それはそれで尊いことではあるけれど「植えられた」ではなく「生えてきた」のではないか、と思えるような桜に出会うとちょっと嬉しくなります。
 いや、本当は誰かが植えて育てて花咲いたのかもしれないんですけどね(笑)。
 
 つくる、うまれる、うえる、はえる。どの動詞も美しい。そんなことを思った春です。(大)

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