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タイトル 司書の私書箱

No.10「門と叔父叔母の手紙」

挿絵1
※挿絵はクリックで拡大します。

 あけましておめでとうございます。とは言ったものの、コロナ以降、時間の区切りみたいなものが(ますます、というか、いよいよ、というか)薄れてきている感じがしています。これは私だけの感覚なのでしょうか…。
 さて、読書のハードルの話は興味深かったです。「読書」をどうとらえるか、ということだと思うのですが、管啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』(ちくま文庫 2021年)のタイトル通り、本って基本読めないものなんですよね。まあ少なくとも私にとっては…。それを読めるようにしてあげようとか、ハードルを低くしよう、なんてのはちょっとおこがましいのかもしれない。そんなふうに感じましたよ。
 いや、しかし図書館員が「本は読めないもの」と言い切ってしまうというのも…なかなか難しい。

 比喩としてのハードルに似たものとして「間口」ってのもあります。「読書の間口を広げる」とかね。入口としての言葉だと「門」も思い浮かびます。
 「狭き門より入れ」というのは聖書の言葉ですね。狭き門はいのちに至って、広き門は滅びに至るとのことですので、読書界の門は広げるべきなのか、狭めるべきなのか、難しいところです。

 『狭き門』は文学作品のタイトルでもあります。アンドレ・ジイド(岩波文庫 1992年)ですね。 この作品には印象的な「叔父さん叔母さん」が登場します。
 先日、友人と話していたら、友人の叔母さんがマンガコレクターで、子どものころ、叔母さんのマンガを借りてたくさん読んだことが世界観の形成に影響を与えた、ということでした。これはちょっと「我が意を得たり」でした。何というか、甥や姪にマンガを貸してくれるのは「叔父さん」や「叔母さん」だなあ、と思っていた、というか感じていたことを意識できたからです。

 マンガを貸してくれるのが「叔父叔母」というのは「伯父伯母」に対比して、ということです。父母の兄や姉よりも弟や妹のほうが「マンガを貸してくれそう」な気がするんですよね。伯父さんや伯母さんは哲学叢書や文学全集、美術全集を貸して、いや貸してくれるというよりも「そこにある本はどれでも持っていっていいよ」と言ってくれそうな気がする。
 叔父さんは「マヤ、恐ろしい子…」(時代)って白目を剥いてくれそうだし、叔母さんは例のポーズで「死刑!」(時代2)とか言って遊んでくれそう。

 ええ、勝手な偏見だってことはわかってるんです。そして誰かの伯父さんは別の誰かの叔父さんだったりするわけで(私は叔父さんでも伯父さんでもあったりします)、根拠なんてまったくない。
 伯父さんも伯母さんも、叔父さんも叔母さんも、文学も哲学も美術もマンガも、どれが上でどれが下ということでもない。ただ、それぞれ役割がある、という感じがするんですよね。大家族時代の幻想なのか、これは実存的な話というよりも構造的な話、ということになるのかな。

 人口が減っていく現代、伯父さん伯母さん叔父さん叔母さんは絶滅危惧種なのかもしれません。もしそういった役割が担ってきた社会的な機能のようなものがあって、それが危機に瀕しているとすれば、図書館は(まとめ感)そこを補完できるのかもしれない、と感じます。
 また絶滅危惧、と言えば「紙の本」の未来のことを思うわけですけど、紙の本を読むという門が狭くなっていくほどに、たどり着く世界は豊かになっていくのだろうか?
 お正月だけに、門に飾られた松を眺めながら、そんなふうに門のことを考えたりしています。(大)

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