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タイトル 司書の私書箱

No.8「客観性と季節の手紙」

挿絵1
※挿絵はクリックで拡大します。

 こんにちは。今日は秋らしいさわやかな日で、ときどき窓の外の、雲の少ない空と旋回する鳶を見ながらこの手紙を書いています。「さわやか」というのが秋の季語だと教わったことを思い出したりしながら(回顧?懐古?)。
 私の感覚では、年々「夏と冬の間にある(べき)季節」が短くなってきている気がしています。これは住んでいる地域によっても違うと思うのですが、高橋さんのほうではいかがですか。この手紙が届くころには「秋」は終わっていたりするのでしょうか。
 虹の色の数が文化によって違うように、季節の数も必ずしも四つでなくてもいいとは思いますが、やはり馴染みがあるのは春夏秋冬です。まだ暑くても初秋は「秋」だし、すっかり涼しくなっていても晩夏は「夏」。そんな感じです。

 前回もらった手紙に「昔語り」の話がありました。語り手に興味がない聞き手には苦痛になりうる、と。そのあたりを踏まえずに語られる「昔語り」は「客観性を欠く」ということになりますね。
 ただ、客観性を欠くものが常にダメか、ということになるとそうでもないですよね。すごくおもしろいものが主観だけで語られる、ということもありますから、そこを使い分けるのが「客観的」ということになるんでしょうけど、どうもこの「客観性マウント」みたいなのはおもしろくない。「客観性、ナンボのもんじゃい!」と創作する人には言ってほしいものです。

 さてその語られる「昔」「過去」なんですが、季節で言うと「春」が多いように感じます。「青春」というやつですね。人生の季節が春で始まるというのは甚だ主観的な考え方ですが、それが多くの人に受け入れられているというのも興味深いです。
 陰陽五行では青春に先立って玄冬がある、という考え方もあるそうです。「冬春夏秋」ですね。0歳で「青春時代」が始まるというのに違和感があれば、こちらを採用する手もありそうです。

 「一生青春」という方もいらっしゃいますが、私は欲張りなせいか、朱夏も白秋も玄冬も楽しみたい、と思っています。現在は青春時代を過ぎて、朱夏の終わりごろか、白秋の初めというあたりでしょうか。人生を4等分にわけて考えるのが妥当かどうかはさておき、平均寿命で言えばとっくに、人生百年としてもまあ白秋の域に達していなければならないはずなんですが、さて…。そのへんの客観性の欠如はお許しいただこうと思います。

 白秋と言えば北原白秋。直木三十五が年齢をペンネームとして使い始めたのは31歳のときだそうですが、北原白秋は青春時代(と言って差し支えないと思います)から「白秋」を名乗っています。57歳で亡くなるまで、ある意味「一生白秋」だったと言えるかもしれません。詩人の人生らしい、と思います。

 さて、冬になったらラーメン、とのことでした。私の冬の楽しみは、近所の水たまりに鴨(冬の季語です)がやってくることです。そのときはまた、おすすめ本といっしょにお知らせします。(大)
 

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