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タイトル 司書の私書箱

No.7「片手の旅と昔語りの手紙」

挿絵1
※挿絵はクリックで拡大します。

 こんにちは。お彼岸を過ぎて、だいぶ過ごしやすくなってきました。前回のお手紙を書いてすぐドラゴンレーダーを作って珠の在処を調べてみたのですが、さすがに貴重品。世界有数の山の頂上付近や海の底など、パスポート無しでは行けない場所ばかり(私はパスポートを持っていません)だったので、諦めて扇風機で我慢しました。扇風機なら町の電気屋さんで手に入れることができます。

 「両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?」の公案について、高速道路を運転しながら、ハンドルをにぎる両の手に目を向けて考えてみました。言葉遊び的に、両手は片手と片手から成っているので、両手が鳴る音とはそもそも片手と片手がこそ鳴っているわけで、片手が鳴る音とはあなたが両手で鳴らしている音そのものなのですー…などと思ったりしたのですが、全然面白くなくて少し落ち込みました。うん、よし、と。

『片手は自ら音を出そうと思った。しかし、それは叶わず、片手は自分の音を探しに旅に出た。片手は様々なものと出会った。このものならば!と期待を募らせ、勢いよく手をたたきつけたところ、ひしゃげて壊れてしまった。ならばと、優しく触れてみれば、暖かさは感じるものの、音は鳴らなかった。たまに音が鳴ることもあったが、それは、先の衝撃やら熱やらと同じで、自らと他者との間に生じるエネルギーが発散された結果でしかなく、自分の音として納得のできるものではなかった。うまくいかない自分に絶望し、自分以外何も存在しない場所に行った。そこには音そのものがなかったので、片手は何にもとらわれることなく、口をつぐみ耳と目を閉じ、長い時間を経て、音という言葉から逃げ切ったのだ。』…東北は稲刈りの季節です。

 さて、ふむふむとお手紙を読んでいた最後に、「懐古調」というワードが飛び込んできました。懐古調のエピソードは、語り手に矢印を向けてくれる効果があると思うので、「あなたのことをもっと知りたい」という人にはもってこいの話ですよね。何があったという事実に加えて、それに対して自分は何を思ってどんな行動をした、まで情報をもらえることが多いので、私はとても好きな話です。懐古調とは若干ズレるのですが、世間では「前にこんなことがあってよー」という過去の語りが、武勇伝よろしく話のネタとして劣っているような風潮があると聞いたことがあります。そんなことを言っていた人に、酒の場で、では、どんな話が上等な話なのかと尋ねたところ、「今or未来の話だとその人が前向きに生きているという感じになる。それか客観性のある話」という答えが返ってきました。
 客観性は何の話題でも持てる視点だと思うのですが、いわゆる「今を生きる」的な話に、経験談が敗北するだと!?と若干熱くなってしまい、その日はたくさんお酒が進みました。確かに、自分語りをたくさん聞いていくと、「あなたはこういう人ね」という人物像ができてきて、新鮮さがなくなってくることがあります。好きな作家さんやアーティストにも同じことが起こりがちで「冷めた、飽きた」と言っている人を見かけます。
 その人(語り手)に対して既に尊敬を失っており、興味がないという背景があれば、昔語りが苦痛になるのもわかります。しかし、私は知りたい人のことはもっと知りたいタイプです。「この人は面白い」と思った人を知って、知って、知っていったら、行き着く先に面白いその人はまだいるのか。そんなことを考えたことがあり、その時に近くにいた面白い人を時間をかけて(20年くらい)観察しているのですが、その人はちゃんと今でも面白いんですよ!
 うまく書けないのがもどかしいですが、私にはこの往復書簡はそういうものでもあるのです。予定調和があっても、不協和音があっても、私には大した意味はありません(…いや、連載としては落としどころに向かいなさいよと、天の声に怒られそうですけどね)。
 なにやら今回の手紙は妙な調子になってしまいました。秋の憂鬱でしょうか。冬になったらまたラーメンラーメン言いだすので安心してください。(高)

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