「こんばんは」から始まって、いつもの感じのお手紙になっているでしょうか。あえて夜に書いてみました。ドキドキ。
いただいた手紙で質問があった親子丼の件、実は偶然職場近くに親子丼屋さんがありまして、ちょうど今日の昼に食べてきたところでした。小さいお店ですが店主さんの心配りが温かくて好きなんですよ。大体注文は、親子丼(小盛)・味噌汁・小鉢2つのセットがほとんどです。親子丼は鶏肉、卵、玉ねぎだけで天盛りの三つ葉はなし。店主さんの「野菜を十分食べてもらいたい」との思いから、選べる小鉢には野菜の煮物や和え物が日替わりで並びます。
おいしい丼を頻繁に楽しんでいるうちに、自然と食べ方も試行錯誤しはじめました。最近は丼を前にして、①表面に見える玉ねぎを食べる、②鶏肉をよく噛んで食べる、③丼つゆのしみこんだご飯を半熟の卵と一緒にかきこむ…これがなかなか良い。鶏肉ご飯セパレイトスタイル、お気に入りです。
さて、鶏卵論争からバベルの図書館へ!スペクタクルな展開に鳥肌が立ちますね。……。バベルの図書館を思い浮かべてみました。膨大な冊数の「意味のない本」の中にほんの少しの「意味がある本」が混じっている(とはいえ、ボルヘス数ベースなので結局意味がある本の冊数も膨大になりますが)。探している本は、確かにある(はずだ)けれども見つけることができないという、そんな図書館利用者。美しい文学作品を現実的な環境で置き換えてみるのは無粋極まりありませんが、現代の図書館での俗な本と良書の関係に似てたり…なんて言ったら怒られそうですね。なにせ現代の関係をストック・フローだとすると、バベルの図書館で描かれている「意味のない本」はフローとは対応しない。フローはストックになれずにふるい落とされた本であり、環境によってはストックとして意味を持たせることができる(地域に所縁のある作家作品なのでここの図書館では地域資料になる…みたいな)。このあたりに「オリジナリティの意味」の手がかりの波動を感じます。レッツ屁理屈。
「あなたが考えたことはほぼ全て、先人の誰かが思いついていることだ(だから研究をするときは先行研究調査が必須である)」とは大学でたくさん言われた言葉でした。その言葉を聞いて、生来小心者の私は、大海に一人放りだされた気分になり、また、たくさんの目に口を塞がれた気分にもなったものでした。以前の手紙でも触れた『半年ROMってろ』を実感したわけです。そもそもの自分の記憶力の低さ、論理的思考力の低さを鑑み、勉強したところでこの世界で何かを付け足すのは私なんぞにはできない…と思い込みました。その時は、大林さんのおっしゃる「それでも何かしらを加えようとする」には目線が上がらなかったんですね。貧弱な人間です。で、ダメ学生よろしくアルバイトやら恋愛事やらに時間を費やしていたのですが、習慣になっていた日々の読書の中でウィトゲンシュタインに出会った。当時興味を持ったのは語りえぬもの論でしたが、その後就職して、お話ししたり書いたりすることを求めていただくようになってから、自分の背中を押してくれたのは言語ゲーム論1だったと。ちょっとだけ気が楽になりました(ちょっとだけですよ!)。お恥ずかしい心意気なのですが、「すでにあるものを提供するのはオリジナリティがない」のかもしれないけれど、「すでにあるものに意味を感じていなかった人に、私が提供することで何かを意識してもらえたのであれば、その人にとっては(提供したものに私のオリジナリティがなくても)私が動く意味になる」と思っている節があるといいますか(もちろん自分の考えと「すでにあるもの」は区別しています)。バベルの図書館に付け加えるものはないかもしれないが、利用者とバベルの図書館との間にこそ可能性がある…みたいな。あー嫌ですねこれ、無粋どころか名作の鳥肌が立つような芸術性を汚している気しかしません。まあ頑張ってリアルを見れば、大活字本の価値(オリジナリティ)とかそのあたりに絡んでいる気が。…なんか自己嫌悪が止まらなくなってしまいました。こんな文章はバベルの図書館にはいらない。でも、それでも、見つけられなくても確かにそこにある。存在してしまう。
『大好きな図書館に閉じ込められ た』
(高)
1 言語ゲーム
ウィトゲンシュタインが提唱した概念。言語活動をルールのあるゲームとしてとらえ、「ある言葉の意味は(ゲーム内での)その使用に依存する」という考えに基づいて展開される
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